~信心すること、おかげを受けること~

 ※ これは、10月14日の月例霊祭での教話の内容となっています。

 

 先日、休みをいただきまして、朝から京都に行ってきました。
 京都のどこかと言いますと、東寺(教王護国寺)と仁和寺まで、電車・バスで向かいました。東寺は、その日から真言宗立教開宗1200年記念特別拝観として「東寺のすべて」が始まっており、先代(祖父)のお話にある両界曼荼羅図(伝真言院曼荼羅)や立体曼荼羅が展示されていたからです。

 仁和寺の方はと言いますと、私の干支が午年なのですが、午年の御本尊が、勢至菩薩でして、その勢至菩薩の像が、国宝として展示されているみたいなので、それも見てみたいと思ったからです。仁和寺には、他にも「同行二人」も体験してきました。

 いろんな感想はあるのですが、大日如来坐像や薬師如来坐像を見ていて、ふと、昔の人は、なぜこんなにも大きい仏像を作ったのかなと思いました。みなさんはなぜだと思いますか。

 

 帰ってきて、気になったので、ネットで調べてみましたが、私が調べた範囲では、仏像がつくられた理由には、諸説あるみたいです。そのなかに、仏像を作り拝むことが「功徳」であると考えられていたみたいです。
 例えば、「薬師如来」でいえば、現世利益の仏様で、病気平癒の御利益があると信仰されています。昔の人は、まず薬師如来の像を作ることで、功徳を積み、そして、身近に薬師如来をあらわし、拝むことによって、さらに功徳を積み、病気などが治る。そんな信仰のもとに、仏像がつくられたみたいです。

 

 では、私たちは、今、金光教を信心している、信心させてもらっているわけですが、金光教を信心する目的、もっと言い換えますと、金光教という宗教を信仰する目的は、何なのでしょうか。

 

 それは、例えば、健康のおかげをいただきたいなど、個別的具体的な内容が目的であるとおっしゃるかもしれません。私は、それが正しいと思っています。

 

 先代教会長は、宗教は「善人教育」・「徳者教育」であると説いていました。私は、この教えを、本教であれば、金光教を信心することで、善人・特者にならせてもらうことだと考えています。そして徳者とは、神徳・人徳・欲徳のおかげを受け得た者であると。

 仏像がつくられた理由は、つくることが功徳を積む行為であり、つくり祈ることで現世利益を受けるため。私たちが金光教を信心する理由は、信心しておかげを受けるため。
 そんなことを、考えさせてもらいました。

 どうか、「信心すること」を目的にするのではなく、ぜひとも「おかげをうけること」を目的にするといいますか、意識してみて、引き続き、信心の稽古をさせていただきましょう。

 本日も、ご参拝ありがとうございました。