~言葉にすること~
※ これは、6月14日の月例霊祭での教話の内容となっています。
本日も短い間ですが、私のお話しをきいていただきたいと思います。
私は、ふと思ったことや考えたことをよく家族にきいてもらっています。
ほとんどが独り言に近い、とりとめのないことが多いのですが、きいてもらって、それについて意見をもらったり、ただただきいてもらうだけのときも少なくありません。
それには、一応といいますか、理由がありまして、「言葉」にすることで、自分の考えを整理しているといいますか、自分の考えや思いを、「言葉」として、おとしこんで、表現しているわけなんです。
話は、変わりまして、何かを話し合う会議の手法の一つに「ブレインストーミング」という方法があります。
これは、簡単にいいますと、会議での意見出しにあたって、みんなが、「これは関係ないだろう」といった意見まで、言い合って、書き出して、そのあとに一つずつ精査していき、アイデアをまとめるといった方法みたいです。
この手法を知ってから、「言葉に出すこと」、つまり「言語化」ということの大切さ、難しさを考えるようになりました。
そして、この「言葉に出すこと」を意識することを何気なく続けていますと、これは、「人」に言っている、きいてもらっているようで、「自分」に言っている、聞かせているのだと思いました。
この私の教話もそうなんですが、私の頭の中の思いや考えを、皆さんにきいてもらうために、教話として言葉を発しているわけなんです。
そして、言葉として発する、形のない思いを、言葉として、筋肉を動かし、空気を振動させ、結局は自分の鼓膜を震わせている。その働きをとおして、自分の形のない思いを、自分の外に出して、再び、自分の内側に入れる、そんなことを繰り返しているのだと思います。
なので、自分の発言というものは、人に言っているようで、自分に言っていると思います。
これを日常でいいますと、朝の挨拶でも、家族に「おはよう」と言っても、これは、自分に対しても「おはよう」と言っていると言えますよね。
たまに、人に挨拶しても、かえって来ないから、と言いますが、少なくても、自分には、かえってきていると思います。
なので、信心しているから、ということではなく、挨拶など、自分から「言葉」にしていってほしいと思います。その挨拶が人からかえってこなくても、その言葉が、少なくても自分にはかえってきていると思ってほしいと思います。
また、それは、仮に人の悪口を言いたくなっても、人の悪口は、自分への悪口にもつながるので、可能な限り、言葉にするものは、ネガティブなものでなく、ポジティブなものであってほしいとも思います。
挨拶など、何気ない言葉かもしれませんが、自分から言うことで、自分にかえってきていること、それは、ポジティブな言葉であれば、きっとポジティブな言葉として自分にかえってきていると思いますので、今日は、「言葉に出すこと」を意識してみてほしいと思いました。
本日も、ご参拝ありがとうございました。