~知行合一~
※ これは、5月14日の月例霊祭での教話をもとに、編集を加えたものです。
本日も、ご参拝ありがとうございます。短い間ですが、私の話、考えをきいていただきたいと思います。
少し前に、私の学院同期の先生と会って、近況を話していたときに、彼に金光教の学校で宗教の授業を担当するつもりはないですか、と話があったことを教えてもらいました。
そのためには、通信などで再び大学で勉強する必要があるみたいですが、何年か後には、彼が高校生に対し、宗教を教えているかもしれないと考えると、非常に楽しみであり、その旨、彼にも伝え、その場の話はながれて、彼との食事を楽しみました。
その後、ふとしたときに、さっきの会話が思い出され、いったい今、宗教の授業を教えている先生は、どのような授業をしているのだろうと興味がわきました。そして、学習指導案をネットで検索してみますと、約10年前くらいのものがネットで公開されていて、内容を確認することができました。
内容は、教祖さまの生涯について、などから構成されていたのですが、「教科指導にあたり、特に留意する点」の一つとして、以下のことが書かれていたことに、目がひかれました。
「金光教を教える」のではなく、「金光教で教える」ことをおさえておく。
また、話は変わるのですが、4月、5月は各教会でも大祭が仕えられ、私もいくかの教会に参拝させていただきました。そのなかの一つの教会の教話だったのですが、内容の説明は省略しますが、次の話、言葉をきかせていただきました。
「金光教を」伝えるのではなく、「金光教で」伝えること
「金光教を」や「信心を」ではなく、「金光教で」や「信心で」と
「を」や「で」のたった一文字の違いなのですが、大きく違うように思います。
根本というか、芯というか、土台というか、そういう次元、そういうところから、あらわれてくることが大切なのだと思います。
今、私は、先代の一年祭の偲び草として本を作っていて、何名かに先代との思い出などの寄稿をお願いしています。その寄稿が集まってきて、読ませてもらうのですが、先代は、仏教や禅宗、陰陽道の話がすきといいますか、金光教以外の宗教についても知識があり、話す機会が多かったようです。かく言う私も機会は少なかったですが、よくきかせてもらいました。
ですが、先代のすごいところは、例えば禅宗の話をしていても、そこには金光教があらわれてくる、といいますか、芯の部分を確かにもっていたので、他宗教の話であっても、金光教の理解となっていたのだと、改めて、気付かされました。
「知行合一」知識だけでなく、行動に金光教が、信心があらわれて、はじめて本当の理解に及ぶ。
その段階をめざせるよう、一日一日、稽古させていただきたいと思います。
本日もありがとうございました。