~柏手~

 ※ これは、2023年2月の月例霊祭での教話です。

1月は、私が正月にいただいたみ教えを紹介させていただき、その中で「手の表裏」についてお話させていただきました。

今月は、先月に続いて「手」について、別のことをお話しさせていただきたいと思います。

 

私たちは、金光教に限らず、参拝する際に、柏手(拍手)を打ちますよね。
打つ回数は、宗派によって異なりますが、金光教の柏手は、四拍手となっています。

これも、参拝の作法が厳密に決まっているわけではないのですが、私も含めて多くの方は、

一礼 → 四拍手 → (心中祈念) → 四拍手 → 一礼

にならっています。

 

ここで話題を少しかえますが、教祖様の事跡について、考えてみますと、安政6年10月にいわゆる立教神伝を授かり、農業をやめて取次に専念するようになることは、皆さんもご存じかと思います。

そんな教祖様ですが、その少し前の安政5年の正月に、神様から「拍手」がゆるされているんですね。

それまで、信仰深い教祖様は、「拍手」をむやみに打つものではないと考えていたようで、参拝や拝むときに「拍手」を打たないようにしていたようです。

ですが、教祖様の信心が、神様に伝わり認められ、そのお礼として神様から直々に「拍手」を打つことを許してもらうわけです。
「拍手」は、「神門拍手」とも言うようでして、拍手を打つことで、神様が扉を開けて、祈りや願いをきいてくださるとも考えられているようです。

つまり、私たちが普段、参拝のとき何気なく四拍手を打っているかもしれませんが、これは、教祖様が、神様から許してもらったから、今、私たちが「拍手」を打つことができているんですね。

 

今年は、教祖140年のお年柄を迎えております。教祖様だからこそ神様が許してくださった「拍手」が、165年たった今につながっているわけです。

「拍手」の一つとっても、教祖様から、私たちの親先祖を通して、今も脈々と信心が継承されていることに気づかされます。

何気ない「拍手」の作法一つからでも、教祖様の信心に心を寄せるきっかけになればと思い、今日のお話をさせていただきました。

本日もご参拝ありがとうございました。