~手の表裏~

 ※ これは、2023年1月の月例霊祭での教話です。

 

今月から、毎月14日の月例霊祭の祭典の中で、教話といいますか、簡単なお話しをさせていただきたいと思います。
教話といっても、そのときに私が感じたり考えたりしたことを共有させていただき、皆さまの信心の稽古のキッカケになれればいいかなと思っています。

 

本年の正月に、関係のある教会に新年の挨拶で参拝させていただきました。
その教会では、新しい一年をとおしてみ教えをいただく、「み教えくじ」を毎年されており、私も引かせていただきました。
私がいただいたみ教えは、次のものでした。

信心していても、よいことばかりはない。悪いこともある。手にでも、表と裏とがあるようなもので、裏の出た時には、早く表の出るようにおかげを受けよ。

「天地は語る ー金光教教典抄ー 」 118頁第237項

 

私は、このみ教えを、改めていただいた際、「手」の「表」は、いったいどっちなのだろう、と思いました。

手は、手のひらや手の甲とは言いますが、表と裏とは、あまり表現しませんよね。
例えば、腕や手を目の前に伸ばした際、私からは、手の甲が見えますが、皆さんからは手のひらが見えることになります。

この場合、私の視点では、手の甲が「表」となり、手のひらが「裏」となるでしょう。
一方、皆さんの視点では、手のひらが「表」となり、手の甲が「裏」となるでしょう。
しかし、私たちが目にしているものは、同じ「手」に変わりありません。

 

私は、この疑問を抱いたとき、見え方や視点について、はっとさせられました。

 

私にとっての「よいこと」・「悪いこと」は、あくまで私の視点からの判断となります。
しかし、他の人であったり、神様の視点からでは、その判断が真逆となることもあるでしょう。
例えば、「雨」について、外出したい私にとっては「悪いこと」となりますが、農家の人であったり、草木にとっては「よいこと」となります。恵みの雨との表現されますし。

神様の視点では「よいこと=表」なのに、私の視点では「悪いこと=裏」と視てしまっているわけです。

 

では、早く表が出るようにおかげを受けるには、どうしたらよいか。

私の視点と神様の視点を合わせていくことが大切になってきます。
神様の視点、言い換えれば、神様の思いや願いに気づき、同じ思いにならせていただければ、「手の裏」に視えていたものが、「手の表」といただくことができると私は思います。

 

どうか、何事も自分の視点で捉えるのではなく、神様の視点、神様のご気感に沿う、そんな信心の稽古をさせていただきましょう。

本日もご参拝ありがとうございました。